『史記』によると、前殿建築物の規模は東西五百歩・南北五十丈という。なおメートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。ウィキペディア中国語版では693mと116.5mと記述されている。
史記の秦の滅亡に関する記述から、「阿房宮は楚の項羽に焼かれた」というのが現代までの定説だった。しかしながら、「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が2003年に公表された。
始皇帝(しこうてい、紀元前259年1月 - 紀元前210年7月)は、中国秦の王ないし皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)または秦始皇(チンシーホワン、Qín Shǐ Huáng)という。
もともと秦の王であり、紀元前246年 - 紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称した。
始皇帝に先見性があり有能であったことは、始皇帝を嫌う人でも認めている。始皇帝が非常に人材を好んだエピソードは韓非、尉繚子などに対しての話がいくつも残っている。秦が崩壊した原因の一端は間違いなく始皇帝にあるが、その一方でもし始皇帝がこの時代にいなければ、中国の統一は実現されず、分裂したまま歴史が進んだのではないかとも推測できる。
儒教を元にした伝統的な立場からは、焚書坑儒を行った始皇帝は悪逆非道であり、暴君の中の暴君と位置づけられていた。しかし最近では、始皇帝はそれまでの封建的な世界を法の下に近代的な国家へと生まれ変わらせたと言って、肯定する意見も出てきている。それまでとはまるで違った社会を誕生させたのは、始皇帝の才能による部分も大きいのは事実であるとの評価もある。漢が前漢・後漢を合わせて約400年続いたのは、秦からの成果を(秦とは異なって)民衆の恨みを受けることなく受け継いだことによる部分が大きい。
とはいえ六つの文化背景の異なる国を統一した後の急激な中央集権化、当時の官吏たちの資料から伺える厳格な法治主義、統一まもない内からの大掛かりな造作などが、被征服民のみならず自国の民衆の反感をかったことは事実であり、始皇帝が伝統的イメージ程ではないにせよかなりの独裁者・暴君であったことは事実である。また、焚書に関しても、秦を除く国々の識字層(=政治に預かる立場の人々)からの憎悪を招くこととなり、彼らが秦を見限る要因ともなった。
中華人民共和国建国後の中国では、文化大革命発動後の林彪失脚を受けての批林批孔運動の高まりの中、始皇帝、焚書坑儒を階級闘争であると規定し、讃美する論文が続出した。魯迅も、始皇帝の焚書坑儒を、ナチスの焚書とは明白に区別しており、肯定的に評価している。
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